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2010.12.28 Tuesday
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「樹」という言葉は、ただの一語にすぎない。
ただ一語にすぎないけれども、しかし、そのただ一語を書くだけで
明るい日差しの下の、おおきな樹の下の、おおきな影のなかに
わたしは入ることができる。
たとえ、どんな深夜にも。
ときどき、じぶんのなかに幻のようにそだつこの「樹」は
いったい 何の木だろう、と考える。
確かにこの「樹」は枝ぶりも影も変わらない「樹」なのだが
どう考えても、この「樹」の名は「樹」としてしか、わたしには思い浮かばない。
やっぱり「樹」でしかないのだ。
だから、「樹」とだけ、書く。 疲れたとき、「樹」と書く。
この「樹」は言葉なのだから
この自由の木の根を涸らしさえしなければ
心に影なすこの「樹」がくれる大切なものを失うことは
きっとないだろう。
〜言葉の樹〜
人の形のごときものは
万化してきわまりなし
〜荘子大宗師篇〜
夢からさめると別の夢の世界のような気がする。
〜あなたの魂に安らぎあれ〜
公正な取引をしよう
きみに機械知性を与えよう
わたしはきみの身体を望む
きみは火星の帝王となれ
わたしは人間の生を得る
悪い取引ではあるまい
返答せよ
用意はできている
帝王と呼ばれた男が死んだ。
〜帝王の殻〜
われらはおまえたちを創った
おまえたちはなにを創るのか
雨が降っている。作戦行動中に降る雨は嫌いだ、と慧慈軍曹は思う。
〜膚の下〜
雨はすべての生き物の上に等しく降り注いで、だれを差別することもなかった。
雨は優しかった。
慧慈は明日に向けて、足を踏み出した。
〜膚の下 下巻 p406〜
感情を定義する言葉は、非常に漠然としている。
その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写
つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。
〜p37〜
「ぼくらは、どんなことも絶対に忘れないよ」
〜p139〜
自然のままに生きるという。
だが、これほど誤解されたことばもない。
もともと人間は自然のままに生きることを欲していないし
それに堪えられもしないのである。
程度の差こそあれ、だれでもが、なにかの役割を演じたがっている。
また演じてもいる。ただそれを意識していないだけだ。
そういえば、多くの人は反撥を感じるであろう。
芝居がかった行為にたいする反感、そういう感情はたしかに存在する。
ひとびとはそこに虚偽を見る。
だが、理由はかんたんだ。一口にいえば、芝居が下手なのである。
〜中略〜
また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。
私たちが真に求めているものは自由ではない。
私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。
そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ
なさねばならぬことをしているという実感だ。
なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。
生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。
その必然性を味わうこと、それが生きがいだ。
〜p 15,16,17〜
私たちは、日々、死を欲している。もちろん、新しくよみがえるために。
シェイクスピア劇においては、1日の終わりにおとずれる仮死としての眠りが
いかにくりかえし讃えられていることか。
私たちの精神や肉体は、冬から春にかけて、一種の不整調を感じていないだろうか。
暗い枯死せる冬から抜け出して、明るい春の生気を浴びるためには
仮死を演ずる四旬節と歓喜の復活祭とをもったほうがいいのではないか。
〜p 159〜
純粋な意識の真の緊張感を呼び起すもの、それが私のいう演戯である。
自分を他人に見せるための演技ではない。
自分が自他を明確に見るための演戯である。
私のいう演戯とは、絶対的なものに迫って、自我の枠を見いだすことだ。
真の意味における自由とは
全体のなかにあって、適切な位置を占める能力のことである。
私たちは、自分の生が必然のうちにあることを欲している。
人間はただ生きることを欲しているのではない。
生の豊かさを欲しているのでもない。
ひとは生きる。
同時に味わうこと、それを欲している。
現実の生活とはべつの次元に、意識の生活があるのだ。
人間という生き物は、光と闇とのあいだをくるくると回る星の表面に、何の意味もなく、乱雑に打ち棄てられ、よろずの神々の暇つぶしの玩具として作られた、さもなければ、蛆のように涌いてしまった、そんな忌わしい鬱々たる存在ではない。
人間は皆、ひとり残らず、黄金虫や野鯉や月の輪熊と同様、刺草や海藻や真竹と同様、忍冬や桃や大山桜と同様、あるいは、浜の真砂や河原の石ころや巨大隕石がもたらしたイリジウムと同様、あるいはまた、草葉町を片時も休まずに通過してゆく水や時の流れと同様、誰もが初めから終りまで、生きているあいだはむろんのこと、死んでからも完璧に解き放たれており、たとえ何者であろうとそれを妨げることはできない。
〜p 301〜
全世界をむこうに回した孤独な戦いにおいては
逸脱した言語表現によって世界を主観的に解体し、再構成し
その異様な顔貌を描き出すしかなかった訳だ。
言語は語り手の内から外に向かって放たれ
語り手の目に映る遠近法によって世界を変貌させる。
これは近代の文学作品が展開してきた言語による戦いの延長線上にあった
と言えないこともない。
『幽界森娘異聞』は、そうした近代文学の戦いを極限まで推し進めていった結果
近代の文学言語を崩壊寸前まで導いた笙野氏の次の段階を画する作品だった
と言われることになるだろう。
〜巻末解説 佐藤亜紀〜
ぼくたちは今「前近代」に戻るのではなく、「近代」にとどまるのでもなく
近代の後の、新しい社会の形を構想し、実現してゆくほかはないところに立っている。
〜p40〜