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2010.12.28 Tuesday
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作家は文字通り使い捨て、まさに物語の為にあり
われわれ読者が発見するのは結局いつも、物語そのものなのである
それぞれの物語がそれ自身を認識させるために
作家を選んでやってくる
*読書中*
■石のささやき トマス・H・クック (文春文庫)
■死者の書 ジョナサン・キャロル (創元推理文庫)
■青春の死神―記憶のなかの20世紀絵画 徐 京植 (毎日新聞社)
■水の家族 丸山 健二 (求龍堂)
■きつね月 多和田 葉子 (新書館)
■人間の条件 ハンナ・アレント (ちくま学芸文庫)
家族の厄介者として老人ホームに追いやられたマリオン・レザビーは
70歳以上100歳未満の老婆たちと集団生活をおくることになる。
イギリス時代の思い出(キャリントン自身の)が逆流して渦を巻く水のように
時間を自由に交錯させた文体で挿入される。
食堂の壁に掛かる絵に描かれた尼僧の伝記をめぐって
サンタ・ブリヒダの老婆収容施設に、別の時間と空間、物語中の物語が織り込まれる。
物語は嫁姑問題や老人問題やフェミニズム、天変地異などを含みながら
最後にイギリスの魔女伝説や聖杯探求物語に変わっていく。
訳者解説より
1989年の夏、メキシコでレオノーラ・キャリントンに会ったとき
なによりも彼女の手の動きが示す生き生きとした存在感に強く印象づけられた。
旅は常に行方なき言葉に道を与える。
なぜなら人間の夢と記憶は
移動する旅人の意識のなかにすでに書き込まれてあるからだ。
〜表紙カバーの言葉〜
読書行為が永遠に宙づり状態のまま行き場を失ってしまうような書物。
頭から順を追って読まれることを拒否する小説。
字義どおりの意味を伝達することを欲しないアンチ・ノヴェル。
文字量の経済性(エコノミー)がかえって情報量の増殖をもたらすような
メタフィジカルな寓話・・・・・。
反読書を誘う本・・・・・。
〜序章〜
英語で、わたしの名前は「希望」という意味になる。
スペイン語では、それはいろんな意味をもっている。
それは「悲しみ」でもあり、それは「待つこと」でもある。
それは数字の九のようだ。
それはくぐもった色だ。
それは、わたしの父が日曜の朝に髭を剃りながら聴く
メキシコ製のレコードから流れる雑音の入った歌だ。
サンドラ・シスネロス 『マンゴー通りの家』
〜思春期のフェミニズム p134〜
この本を読み、ぼくは
図書館に一冊の本を届ける「引きこもり」の人たちの一人であることを止そうと思った。
世界の果ての図書館の壁にではなく
どこかにいる読者たちに向かって、言葉を紡ぎだそうと思ったのである。
だが、ブローティガンはどうだったろう。
それがもうひとつのはじまりのように感じられるのは
なぜだろうか
すべてはまたべつのことにつながっているのだから
もう一度
わたしはやりなおそう
ひょっとしたら、なにか新しいことがわかるかもしれない
ひょっとしたら、わからないかもしれない
ひょっとしたら、前とぜんぜん違わない
はじまりかもしれない
ときは早くたつ
わけもなく
またはじめから
やりなおしなんだから
わたしはどこへも行きはしない
これまでいたところへ
行くだけなのだから
[ リチャード・ブローティガン 藤本和子 ](単行本/新潮社)
この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。
きっとやりとげられるという希望が
岩を押し上げるその一歩ごとにかれをささえているとすれば
かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。
(シーシュポスの神話 p213)
シーシュポスは、自分の悲惨な在り方をすみずみまで知っている。
かれを苦しめたに違いない明徹な視力が、同時に、かれの勝利を完璧なものたらしめる。
侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。
(p213〜214)
偉大な作品がそうであるように、深い感情というものは
みずからこう語っていると意識しているより以上のものを、つねに意味しているものだ。
(不条理の壁 p24)
精神の第一歩は真であるものを偽りであるものから区別することだ。
(p34)