わたしの日記は、毎日一行か二行。
家にばかりいて、どこへも行かず、誰とも逢わず、かくことはない。
平成二十年。一月十四日、こうかいてある。
「降らず照らず、もやもやした一日」
と。たったそれだけだ。
朝起きて、食事して、新聞よんで本よんで。昼めし食って、昼寝して・・・・・
これがわたしの毎日だから、かくこともないのである。
ボーとするのも大切で、
わたしにとってのボーとするのは、なによりも楽しい時間である。
ほんとに頭の中はからっぽになり、
夢の国へいった気分につかって、心地よい。
一日一回、ボーとすればよい。
二回とか三回とか、したことはない。
ボーとの時間は、一時間くらいである。
シャープペンシルや白墨がもっている おぼつかない消息というもの、
消そうと思えばいつでも消せるのにその線がのこされていく事情、
もともとは弱々しいにもかかわらず、なんらかの存立条件をえて、
その存在がひそかに、しかし明晰に保持されつづけている感覚、
これらが 「フラジャイルな弱さ」 なのである。
脆くて壊れやすいのにもかかわらず、その本質的な脆弱性ゆえに、
たとえ外部から破損や毀損をうけることがあっても、
なかなか壊滅しきらない内的充実がある。
それがフラジャイルであってフラジリティなのである。
いったい 「弱さ」 とは何か。
「弱さ」には種類とか期限というものがあるのか。
たとえば「弱さ」の歴史といったものは書けるのか。
俺は強大なる芸術を創造するであらう
すばらしい覚世界を内にするであらう
それはわかりきつた事だ。
『緑金の鶏』 という詩は、こう結ばれている。
世界がかきくもる
ぬえが現はれる前の空の様に
私はまた愛の恐ろしい曇天に会つた
そしてわけもなくふさいで居る
ばかばか、ばか
と云つても空は晴れない
私の心の空は。
『宮殿指示』 という詩は、こう結ばれている。
明日は、村山槐多の命日なのだな、と思いながらこれを書いている。
あ、この本の返却日も明日だった。
とてもとても2週間くらいで読み終えることができるような本ではない。
これから一生かかっても読み終えることなどできないだろう。
もったいない生き方をしてばかりのわたしだけれど
この本が手元にあれば
ちょっとは真摯に生きなければという気持ちになるかもしれない。
〜〜追記〜〜
渋谷区立松濤美術館で開催された
『没後90年 村山槐多−ガランスの悦楽−』展の出品作品
作品名をクリックすると、その作品の画像を見ることができるようです。
・読書とは、一種の時間の循環装置だともいえるだろう
・読んだ本の大部分が読まないのとまったく同じ結果になっている
・本に「冊」という単位はない
・読むことと書くことと生きることはひとつ
言葉はそれを使うはじから、
「言葉以外のもの」「言葉以前の自分」を、その場に呼び出してしまうのだ。
p47
いつか満月の夜、
不眠と焦燥に苦しむきみが
本を読めないこと
読んでも何も残らないことを
嘆くはめになったら、
このことばを思いだしてくれ。
本は読めないものだから心配するな。
p10
脳みそ筋肉なあんたたちの夢を
一度くらいは一緒に見てもいいかと思ったからだ・・・・・!
p248(単行本ページ)