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村山槐多というひと。
1月24日まで松濤美術館で開催されていた
没後90年の回顧展を観てきたという友人が
あまりにも興奮していたものだから
気になって気になって・・・
画集があれば、絵も見たかったのだけど
短歌や詩など、テクストも素晴らしかったと言っていたので
図書館からこの本を借りてきた。
★槐多の歌へる 村山槐多詩文集 酒井忠康 編
村山槐多は、大正時代を駆け足で生きたひとだ。
Wiki の 槐多のページをみると
1896年9月15日-1919年2月20日 とある。
22歳で 流行性感冒(スペイン風邪)による結核性肺炎で亡くなったそうだ。
この本を開くと最初に
水彩で描かれた 《庭園の少女》
油彩で描かれた 《尿する裸僧》 というふたつの作品のカラー口絵がある。
そして
ふたつの遺書がある。
このひとは、自分の生が短いことを知っていたのだろうか。
・・・などと考えながらページをめくる。
詩、散文詩、短歌、それから日記へと続くのだけれど
なんていったらいいのだろう。
いきおいがある、というか、息苦しくなるような
読んでいてめまいがしそうなくらいの熱を感じてしまう。
このひとを、のちに高村光太郎は、詩のなかで
「火だるま槐多」と表現したのだそうだ。
とてもとても一気には読むことができない。
おそろしく密度の高い生をおくった ひとりの天才が遺した言葉を
流し読みになど、していいはずがない。
紅蓮の炎のような激しさがある。
すべてを見とおしているかのような静けさもある。
靭さと脆さが不安気に行ったりきたりしているような。
この感じ、うまく言葉にならないけれど・・・
槐多のリアルな言葉に、圧倒される。
俺は強大なる芸術を創造するであらう
すばらしい覚世界を内にするであらう
それはわかりきつた事だ。
『緑金の鶏』 という詩は、こう結ばれている。
世界がかきくもる
ぬえが現はれる前の空の様に
私はまた愛の恐ろしい曇天に会つた
そしてわけもなくふさいで居る
ばかばか、ばか
と云つても空は晴れない
私の心の空は。
『宮殿指示』 という詩は、こう結ばれている。
明日は、村山槐多の命日なのだな、と思いながらこれを書いている。
あ、この本の返却日も明日だった。
とてもとても2週間くらいで読み終えることができるような本ではない。
これから一生かかっても読み終えることなどできないだろう。
もったいない生き方をしてばかりのわたしだけれど
この本が手元にあれば
ちょっとは真摯に生きなければという気持ちになるかもしれない。
〜〜追記〜〜
渋谷区立松濤美術館で開催された
『没後90年 村山槐多−ガランスの悦楽−』展の出品作品
作品名をクリックすると、その作品の画像を見ることができるようです。
”なせばなる” の歌は、この最後の、もう一押し、一ふんばりを
諦めすてることの 弱い精神に鞭打つ言葉であろうと思います。
ならぬはひとのなさぬなりけり とは、
人が最後の努力を惜しむから成らぬのであると言うことで、
結局最後は天地の大いなる力がそこに働いて、その人を助けるのであります。
一途に、努力精進をしている人にのみ、天の啓示は降るのであります。
もっとも、天の啓示は、そうでない人にも降っているのかもしれません。
が、哀しいことに、そのひとは一途なものを失っているので、
その有難い天の啓示を掴みとることができないのであります。
~~無題抄 p30~31~~
先日観てきた レオナール・フジタ展
藤田嗣治の猫が好きで
この本は以前からたびたび開いてみている
[ 猫の本?藤田嗣治画文集 藤田嗣治]
(講談社)
とりわけ 猫と幼い少女を描いたこの絵が好き
猫と 少女と フジタの世界
うっとりと ためいきしか でてこない
先日の展覧会で
いちばん長く居たのはこの猫の絵の前
目を閉じると、猫たちの息遣いが感じられる
ケモノのにおいが感じられる
瞬きをすると、あれ? 動いた? って思えるくらい
まるで 生きているかのような 絵
「イヴ」の連作も息を呑む美しさ
フジタの絵に対する姿勢がうかがわれる
さまざまな素材や技法と真摯に向き合うフジタ
なみなみならぬ探究心は
一連の「イヴ」たちを観て伝わってきた
天才であるがゆえ 努力もハンパじゃないって思った
猫とフジタ
なんか とってもいいな
ちょっとだけ 猫のように 睨んでみようか(笑)
家族の厄介者として老人ホームに追いやられたマリオン・レザビーは
70歳以上100歳未満の老婆たちと集団生活をおくることになる。
イギリス時代の思い出(キャリントン自身の)が逆流して渦を巻く水のように
時間を自由に交錯させた文体で挿入される。
食堂の壁に掛かる絵に描かれた尼僧の伝記をめぐって
サンタ・ブリヒダの老婆収容施設に、別の時間と空間、物語中の物語が織り込まれる。
物語は嫁姑問題や老人問題やフェミニズム、天変地異などを含みながら
最後にイギリスの魔女伝説や聖杯探求物語に変わっていく。
訳者解説より
1989年の夏、メキシコでレオノーラ・キャリントンに会ったとき
なによりも彼女の手の動きが示す生き生きとした存在感に強く印象づけられた。