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・読書とは、一種の時間の循環装置だともいえるだろう
・読んだ本の大部分が読まないのとまったく同じ結果になっている
・本に「冊」という単位はない
・読むことと書くことと生きることはひとつ
言葉はそれを使うはじから、
「言葉以外のもの」「言葉以前の自分」を、その場に呼び出してしまうのだ。
p47
いつか満月の夜、
不眠と焦燥に苦しむきみが
本を読めないこと
読んでも何も残らないことを
嘆くはめになったら、
このことばを思いだしてくれ。
本は読めないものだから心配するな。
p10
脳みそ筋肉なあんたたちの夢を
一度くらいは一緒に見てもいいかと思ったからだ・・・・・!
p248(単行本ページ)
以下 2007/09/09の記事
息をつめて読む
ひそやかにページをめくる
静謐な文章
ところどころに クリムトの絵画が置かれ
そこで しばし 息をする
[ 聖なる春 久世光彦 ]
こんなところに閉じ籠もっていると
季節がわからないでしょう と みんな心配してくれるけれど
そんなことはない。
(p7 この言葉で始まる)
つまり、私は <なんとなく>美術館に迷い込んだのだと思う。
女にしたってそうだ。
最初はみんな、<なんとなく>である。
ただ、その <なんとなく>に?まり込み、森の罠にかかったように
逃れられなくなることがあるのだ。
(p15)
春がこないのなら、夢でも見るしかない。
暗い夢は、夢じゃないとキキは言うけれど
他に見るものがなければ、夢でも見るしかない。
(p32)
*この世界のぜんぶ
詩 池澤 夏樹
絵 早川 良雄
「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」
と書いた詩人が死んだ日にも
おまえは着々と言葉をおぼえていた
〜〜中略〜〜
人は言葉で自己を主張する
言いたいことを言う
しかし一方、言葉があるから
人は他人に対して自分を開きもできる
「あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌から落ちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう」
「」の部分は、田村隆一の詩集『言葉のない世界』から池澤夏樹が引用
「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」
とまでは、思わなかったけど
「言葉は無力だ」と思ったことなら何度もある
・・・そんなことを思いながら読んでいたけれど
池澤夏樹さんの言葉は
そんなひねくれたわたしの気持ちなどおかまいなしに
どこまでも涼やかに、どこまでも透明で、
ひねくれているのが、なんだか ばかばかしくなってきた
本から目をあげて、空をみる
皆既日食の翌日の空は、晴れわたっている
身近なものはかわいい
この錯覚にご用心
家の近くの鳥が
ここにしかいないと思ったら
大間違い
*酔郷譚(すいきょうたん) 倉橋由美子
(河出書房新社)
倉橋由美子の遺作。
七つの短篇からなる一冊。
魔酒の効能で、主人公の「慧君」が、
現世と冥界(めいかい)を往還、時に女性に変化し、「歓を尽くす」。
(本よみうり堂、出版トピックより引用)
と、それだけを聞けば
(あぁ、ありがちなそういう話ね)
と思われてしまいそうだけれど
そんな話を寝転がっては読めなくしてしまうのが
倉橋由美子の冷静で一貫した視線の鋭さ、というか凄さ。
「小説はごちそうだと思っていますから
おいしくないのは嫌。
遊び心地になれる楽しい話を書きたくなりました。」
そう語っていたという著者。
そう、「ごちそう」には違いないよね。
うん、でも、おいしいけど、さらりとしすぎている、というか
もっと毒や凄味が欲しいかも・・・なんて感じながら読み進めていたはずなのに
読み終えて意外なほどの酩酊感は
さらりとした飲み口だから、と、ついつい飲みすぎてしまった夜に似ている(笑)
倉橋由美子を読むと、殊更に 「せい」を意識してしまう。
その「せい」は、「性」であり「聖」
「世」「政」「静」「清」「凄」「醒」「逝」
それらの「せい」は、すべて「生」に結びつき「生」という「せい」になる。
あの世とこの世を往き来する物語を紡ぎながら
静かに逝ってしまった倉橋由美子さん。
でも「よもつひらさか往還」そして「酔郷譚」を読むと
逝ってしまったけれど、いつか戻ってくるだろう。
というか、すべては「往還」なのだと思えてくる。
生と、死。
わたし個人は、輪廻転生できると思ってはいないけれど
繰り返し繰り返し、生と死を往ったりきたりする特別な人はいるのかもしれない。
そんなふうにも思えてくる。
なんだか 『高丘親王航海記』 (澁澤龍彦)が読みたくなった。
「人間は都市に残された最後の自然だ」
人体には三十億年の生命の記憶が秘められている。
人間は、内面が大切だ。
そもそも「内面」とは何だろう。
じつは、知性というのは、体そのもののことなのではないか。
そんなことを考えるために、ぼくはこの『体の記憶』を書いた。
私の冥想はいつまですわっていても結晶しなかった。
筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持ちもするし
あれにしようか、これにしようかと迷いだすと、
もうなにを書いてもつまらないのだというのんきな考えも起こってきた。
しばらくそこにたたずんでいるうちに
今度は今まで書いたことがまったく無意味のように思われ出した。
なぜあんなものを書いたのだろうという矛盾が私を嘲弄し始めた。
ありがたいことに私の神経は静まっていた。
この嘲弄の上に乗ってふわふわと高い冥想の領分に上ってゆくのが
自分には大変な愉快になった。
自分の馬鹿な性質を、雲の上から見おろして笑いたくなった私は
自分で自分を軽蔑する気分に揺られながら揺籃の中で眠る子供にすぎなかった。
~三十九~
余はまた写生帖をあける。
この景色は画(え)にもなる、詩にもなる。
心のうちに花嫁の姿を浮べて、当時の様を想像して見て
したり顔に、 花の頃を越えてかしこし馬に嫁 と書きつける。
不思議な事には衣装(いしょう)も髪も馬も桜もはっきりと目に映じたが
花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。
しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、
ミレーのかいた、オフェリヤの面影(おもかげ)が忽然(こつぜん)と出て来て、
高島田の下へすぽりとはまった。
これは駄目だと、せっかくの図面を早速(さっそく)取り崩(くず)す。
衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗(きれい)に立ち退(の)いたが
オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは
朦朧(もうろう)と胸の底に残って、棕梠箒(しゅろぼうき)で煙を払うように、さっぱりしなかった。
空に尾を曳(ひ)く彗星(すいせい)の何となく妙な気になる。
~「草枕」より~